フレデリックスバーグ市
フレデリックスバーグ市中心街
標語 : "アメリカで最も歴史ある都市"
位置
バージニア州における位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度18分06秒 西経77度28分15秒 / 北緯38.30167度 西経77.47083度 / 38.30167; -77.47083
フレデリックスバーグ(英:Fredericksburg)は、アメリカ合衆国バージニア州の独立市である。人口は2万7982人(2020年)。ワシントンD.C.の南70キロメートル、州都リッチモンドの北80キロメートルに位置する。ワシントン・ボルチモア・北バージニア広域都市圏に含まれる。経済分析局は統計処理の目的で、フレデリックスバーグ市と周辺のスポットシルベニア郡を結合している。
フレデリックスバーグとワシントン都市圏のフレデリックスバーグに近いところの人口で、かなりの数の者がフェアファックス郡、プリンスウィリアム郡やアーリントン郡、さらにはワシントンD.C.まで、車、バス、鉄道で通勤している。このことで、フレデリックスバーグは文化的に北バージニアの一部になってきたのか、そうではないのかについて、この地域で長い議論が続いており、どちらも強い主張がある[2][3][4][5]。 フレデリックスバーグはラッパハノック川
歴史
フロンティアにおける関心が高まるにつれて、植民地議会は1720年にスポットシルバニアと名付けた新郡を創設し、その郡のための港として1728年にフレデリックスバーグの町を建設することで応えた。当時フレデリックスバーグはスポットシルバニア郡の一部だった。フレデリックスバーグの町はイギリス王ジョージ2世の息子、プリンス・オブ・ウェールズのフレデリックに因んで名付けられ、町の通りは王室構成員の名前を抱いていた。1732年に郡庁舎がフレデリックスバーグに移され、郡庁舎が郡の中央に近い所に移された1780年まで郡庁所在地だった。フレデリックスバーグは1781年に町制が布かれ、独自の役場、議会および町長を備えた。
1879年には独立市としての認可を受けた。1911年には現在あるような市政代行官と委員会による政府の形を採用した。
フレデリックスバーグはジョージ・ワシントンと密接な繋がりがある。ワシントンの家族は1738年にフレデリックスバーグとはラッパハノック川の対岸にあたるスタッフォード郡のフェリー農場に移転した。ワシントンの母メアリーは後にフレデリックスバーグ市に移転し、妹のベティは当時市の外にあったプランテーション・ハウス、ケンモアに住んだ。その他初期の重要な住人としては、独立戦争時の将軍ヒュー・マーサーやジョージ・ウィードン、海軍の英雄ジョン・ポール・ジョーンズおよび後にアメリカ合衆国大統領になったジェームズ・モンローがいた。
フレデリックスバーグ市の発展と成功はその他の重要な住民、すなわちその発展のために無くてはならない様々な技能を持ったアフリカ人奴隷に基づいていた。「奴隷達はプランテーション、ドック、鉄作り、鉱山と採石場、商業、建設、家内労働で働き、その他では熟練した鍛冶屋、桶屋、靴屋および馬車屋だった。アフリカ系アメリカ人はこの地域の発展に不可欠なものだった。[6]」
19世紀の間、フレデリックスバーグはその交易という活動範囲を維持しようとしたが、あまり成功しなかった。これがラッパハノック川での運河の発展や有料道路と板敷道の建設を促し、内陸部と市場が開かれる町とを繋いだ。1837年までに、後にリッチモンド・フレデリックスバーグ・アンド・ポトマック鉄道となる南北の鉄道が、バージニア州都リッチモンドとこの町を繋いだ。必要性の高かった西の農作地域とこの町を繋ぐ鉄道は南北戦争が終わるまで完成しなかった。
南北戦争とその後1863年3月のフレデリックスバーグ、ラッパハノック川対岸から臨む。右手にバプテスト教会の尖塔、中央寄りにセントジョージ教会の塔が見える。南北戦争: チェンセラーズヴィル方面作戦中のフレデリックスバーグの戦いでメアリー高地に対する猛攻前に塹壕にいる北軍ポトマック軍第6軍団の兵士、1863年5月。
南北戦争の間、フレデリックスバーグはその位置が北軍と南軍のそれぞれ首都であるワシントンD.C.とリッチモンドの中間にあったために、戦略的に重要となった。1862年12月11日から15日にかけてフレデリックスバーグの戦いが行われ、北軍による砲撃と略奪のために市は大きな損失を受けた。1863年5月にもチャンセラーズヴィル方面作戦(1863年4月27日-5月6日)に関連して、市とその周辺で2度目の戦いがあった(チャンセラーズヴィルの戦い)。1864年5月、市の近くで荒野の戦いとスポットシルバニア・コートハウスの戦いが起こった。
南北戦争後、フレデリックスバーグは域内交易の中心として以前の立場を取り戻し、市域も緩りと拡がった。1908年、州の女性のための教員養成と工業の学校としてメアリー・ワシントン大学がここに設立された。この大学は1938年にメアリー・ワシントン・カレッジという名前になり、女性の一般教養カレッジとしてバージニア大学と長年交流した。1970年にはバージニア大学から切り離され、男性の入学を認めるようになった。近年、その名称をメアリー・ワシントン大学に変えた。卒業生と専門的研究のための別のキャンパスが郊外のスタッフォード郡にある。